大学広報誌OPU Vol.02「紡」
38/44

それが待ち合わせている当人同士だったと気づくのに、携帯電話のない時代だったので1時間くらいかかりました。そんなのをぼんやり見ているのも好きでした。│大学時代はどんな学生だったと思いますか?勉強はよくしました。でも、もっとすればよかったと思っています。総合科学部というのは幅広い科目を選択できたので、専門の地理学以外でも現代思想などおもしろい授業は積極的に受講しました。大学時代は写真を撮っているか勉強しているかが多く、目の前のことがおもしろかったので小説は書きませんでした。│大学生活には満足していますか?すべてのことを含めて、本当にいい学生生活でした。自分の興味を持っているものを、やりたいと思えばできた時代ですから。いい友だちもできました。最近でも写真部の仲間とはよく集まっています。写真部の後輩でカメラマンになった女性がいるんですが、雑誌の仕事で私の写真を撮ってくれたときは、本当にうれしかったですね。│卒業後、就職されてから小説を再び書こうと思ったのはなぜですか?就職活動を通じて、自分は何をしたいのかをすごく考えました。そこで出した結論が、「自分はやはり作家になるべきだ!」。機械メーカーにいったん事務職として就職しましたが、今のこの状態は間違っている、早く小説を書いてその道に進まないといけないという思いは強かったです。でも、就職したからには3年は勤めようという気持ちもあったので、この間に小説を書いて道筋をつけようと決めました。│仕事をした後に小説を書く生活は大変だったのでは?いいえ、残業もない仕事だったので学生の時よりも暇だったくらいです。学生時代は家に帰ればレポートや予習復習、卒論に追われましたが、仕事をしてからは何もないので、いろんなことができました。│作家になる道を開いたのは、『きょうのできごと』ですか?その前に1本書いて賞に応募して、それが最終選考に残ったので出版社の方から声がかかりました。雑誌の企画で新しい人に書いてもらう企画があるけどやってみますか?と。そこで書いたのが『きょうのできごと』の一部でした。│映画化されたときはうれしかったでしょうね。作家の仕事を始めてから全然売れなかったので、映画化と聞いたときは、これで何とかなるかなと希望を持ちました。│でも、会社を辞めることに不安はなかったですか?4年間勤めた会社をやめたときは、まわりの人からは無謀だといわれました。やめた次の年の年収は12万円。OL時代に多少お金を貯めていたのと、親元に住んでいたから生きていけたようなものです。バイトはする気がなかったので、作家一本でやってきましたが、貯金が底をつくまでに何とか仕事が軌道に乗り始めました。大学の時、地理学の授業をとっていて、大阪の街の成り立ちを勉強したことがあった。定期的に撮影された大阪の空中写真の同じ場所を見比べて土地利用の変遷を調べる課題があり、わたしは、よく知っている場所をと思って心斎橋周辺の写真を選んだ。※『その街の今は』(新潮社)より抜粋OPUInterview柴崎友香「大学生という時間」を語る。04│卒論はどんな内容でしたか?大阪の街のイメージについて書きました。古い写真によって、イメージの分析をするということもしました。大学では写真部に所属していたので、自分で街の写真を撮ったり、古い写真も探しました。私の小説『その街の今は』には大学での授業や体験が生かされていて、卒論の内容も反映されています。│写真部での活動の思い出は?当時の写真部の部室は池のすぐ横にあって、はっきり言ってきれいじゃなかったです。そういうのも私は好きなんです。手前の一段高くなったところに畳があって、写真よりもマンガが散乱していて、何だか昔の大学みたいでした。当時の部員は15〜20人くらいいたように思います。朝、大学に行ったら荷物を部室に置いてから授業に出る、そんな毎日でした。年に2回は学内で写真展をして、12月には心斎橋のギャラリーで写真展をしました。これが一番大きい行事でしたね。夏と春は合宿でした。│どんなものを主に撮影していたのですか?好きなものを撮ってよかったので、私は友だち、街、いろんなものを撮りました。梅田や心斎橋にはよく行きました。私は街が好きで、風景はそこに人がいるからおもしろいという考えなので…。あるとき写真を撮ろうと思って梅田の歩道橋から見ていたら、あっちとこっちに2人いて誰かを待っているんですね。結局「その街の今は」(新潮社刊)「また会う日まで」(河出書房新社刊)37

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です