大学広報誌OPU Vol.02「紡」
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取や町会議員を務めるなど貝塚町の財界・政界で活躍したが、第二次世界大戦とともに肥料統制が強まる中、肥料商を廃業した。岡田准教授は、地元に密着した経済史研究が好きだという。その理由のひとつが、大阪の南部には和歌山に至るまで大きな大学がないこと。「それだけにこの地域の総合大学である大阪府立大学に対する地元の期待は大きいはずです。府大があって、地域までの大坂湾岸地域へと広がっていく。その頃になると廣海家は廻船を自ら所有するようになる。その手船もやがて大型化し、取引形態も運ばれてきた肥料の委託販売だけではなく、自らの資金で生産地で直接仕入れる二つのやり方が併存するようになった。幕末期の廣海家は、船持商人や大坂・兵庫の肥料商への代金決済に際して、大坂の両替商宛の手形を振り出して支払っている。「商いが大きくなると当然のことながら千両箱を運んで決済するわけにはいきません。十七世紀末には江戸、大坂を中心に為替決済のシステムができあがっていたようです。廣海家が為替で取引できたのも、貝塚の両替商と堺の両替商がつながり、その背後には大坂の両替商がいるといった具合に、堅固な金融ネットワークがひかえていたからです」また、岡田准教授は「大坂では大きな商いの場合、現銀取引(江戸は金建て、大坂は銀建て)はほとんどなかったのでは」と語る。廣海家から発掘された古文書の中には、手紙類も多く含まれている。これらを読みといていくと、商いだけではなく人間関係や文化的なつながりなど実に興味深いことも浮かび上がってくるそうだ。「豪商同士のつながりは強かったようです。旦那衆が句会を開いたり、豪商間で婚姻関係を結んだり。時には若旦那のラブレターもどきも出てきてね…。当時の商人たちは一様に文化レベルが高く、元気で、結構したたかで。今も昔も人間は変わらないな、としみじみ思います」そんな廣海家も、明治から大正時代は肥料商業を維持しつつ、当主は貝塚銀行の頭研究している先生がいて、眠っていた事柄が明らかになっていくわけですから」現在、岡田准教授は泉州の地域経済の特長を探り、それを前提とした近代化の過程を明らかにすることを自らの研究課題としている。が、一番の悩みは泉州の木綿に関する史料と堺に関する史料が極端に不足していることだ。「たとえば野良着や藍染めに使われた河内木綿が有名なのは、ある意味近代化されなかったからです。手ぬぐいや浴衣地に使われた薄手の泉州木綿は、糸が細いがゆえに機械化に転換しやすく、近代の繊維産業の隆盛につながりました。だから逆に分からない。廣海家の史料でも木綿がない(笑)」経済史の研究成果は、すぐには目に見えてこない。しかし、現状がどうやってできてきたのかを知ることは、この先どうしようという答を探る上での重要な手がかりとなるだろう。「現代の日本は、享保期に似ています。実学重視で即効性が強く求められている。それだけでいいのか、ちょっと立ち止まって考えてほしいですね」研究室の学生には、つねに「そもそもは…、から始めなさいと」言っているという岡田准教授。「古文書を読み解くことだけが経済史の研究ではありません。ペット産業、公営交通、自動車産業、どの産業にも歴史、経済史があります。そもそもこの産業はどうだったんだ、と考えることから始めればいいのです。興味深い世界が広がってくるでしょう」大阪府立大学があり、この地域を研究している先生がいて、眠っていたものが明らかになっていく…。地元の人々から、府大は様々な役割を期待されていると思います。経済学部 経済学研究科金融ネットワークを背景に取引の大半を為替決済「そもそもは…」から始めればどの産業にも経済史はある米穀、肥料を扱う貝塚の豪商・廣海家から100年あまりにわたる帳簿や手紙類がほとんど手つかずのまま発見された。1993年より研究者グループによる調査が始まっている。経済学部校舎近くに住みついた、人なつっこい“府大ネコ”。岡田先生のホームページにも登場。備前蔵(備前藩の蔵屋敷)発行の米切手。米市場での売買は、現物ではなく米切手による取引が行われていた。古文書を調査・整理して、ひたすら読み解くことから研究は始まる。そこからは大坂南部の湾岸地域における産業、物流、金融のあり方がいきいきと浮かび上がってくる。20

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