大学広報誌OPU Vol.02「紡」
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経済学部経済学研究科経済学部経済学研究科岡田光代准教授Mitsuyo OkadaProfile1994年より経済学部助教授。専門は日本経済史。「日々、相場や数字に一喜一憂している人も、年に一度でいいから100年単位で経済を見てみませんか。考え方が変わりますよ」和泉国の主要産業は農業だが、とりわけ綿業は重要なものであった。広範囲にわたって綿が栽培され、さらに糸紡ぎ・木綿織りが農間余業として各農家で広く行われていた。綿の栽培には大量の肥料を必要とする。諸色問屋であった廣海家は、北海道・東北から北前船で運ばれてくる干鰯や鯡粕(肥料)を仕入れ、後背の泉南農村へ販売していた。つまり廣海家は泉南地域農村への肥料供給の拠点として、生産地と消費者(農家)とを結ぶ重要な働きをしていた。廣海家の一年間の肥料販売は『干鰯売留帳』に集約されている。この帳簿をたどると、物流や取引先が時代の流れとともに変遷していくのが分かる。廣海家の取引先は、貝塚一円から兵庫・西宮、泉南の佐野・尾崎、そして紀州北部近世〜近代初期の泉州の豪商たちは、廻船を自ら持ち、手形決済するなど、先進的な商取引を行っていた。戦国末期のいわゆる『黄金の日々』以降、堺は江戸時代には衰退を続けたと思われがちである。しかし、三都(江戸・京・大坂)を別格とすると、堺は長崎貿易の特権を握っており、右肩上がりの成長はなかったものの全国有数の大都市であった。この堺とつながりが深かったのが和泉国の岸和田、貝塚である。中でも貝塚は堺を経由した北前船の最終到着地点であり、廻船問屋や諸色問屋が手広く商いをくり広げていた。その貝塚で一、二を争う豪商・廣海家から、当時の地域経済の様子や商家経営のあり方が窺える膨大な古文書(経営資料)が発見された。そこからは今も昔も変わらない、商人像が見えてくる。和泉国の農村地帯への肥料供給の拠点「豪商・廣海家」寛政年間、外国の脅威と海防の必要性を説いた林子平の『海国兵談』(経済学部所蔵)。幕府により発禁本とされた。地元に残る古文書の保存・活用にも取り組む。19

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