大学広報誌OPU Vol.01「新」
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OPUInterviewグローバル社会の中で、何を学び、どう生きるのか。広々としたキャンパスで、勉学とクラブ活動に没頭した4年間。楽しく、充実した大学生活だった。日産自動車のCOO志賀俊之氏に、大学時代の思い出とこれからの日本企業および日本人のあり方などをうかがいました。―入学された頃の大阪府立大学は、どんな大学でしたか?私は和歌山県出身なので、通える大学をということで大阪府立大学を選びました。私が一番気に入ったのは、あの雰囲気です。都会の中のごみごみした大学ではなく、周囲は仁徳天皇陵や富田林に続く美しい自然に恵まれ、広々とした平野の中に大学がありました。キャンパスも広く、のんびりしていましたね。―大学時代はどんな学生でしたか?佐藤ゼミに所属していたのですが、ここは熱心なことで有名なゼミで、私もひたすら本を読んで勉強しました。高野山での夏のゼミ合宿では、国民の富の分配にはどういう経済政策が一番いいのかとか、インフレをどうすべきかなど、必死になって議論しました。なんであんなに夢中になったのか…、不思議なゼミでしたね。しかし、私の大学時代の一番の思い出は、ゼミに没頭したことです。あの頃の仲間とは、今でもまだ親しく付き合っています。―ゼミが忙しいと、クラブ活動は難しかったでしょうね?これ本当は言いたくなかったんですけど、実は私、めちゃくちゃ英語が不得意だったんです(笑)。大学受験の時も英語がブレーキになっていたくらいで。しかし、これからは国際化の時代だから英語が苦手ではまずいと思い、入学と同時に一念発起して入部したのがESS。卒業まで活動しました。―ESSで英語は得意になったわけですね?物事、そううまくはいきません(笑)。ESSではドラマとディベートがあって、私はディベート担当でした。ディベートは実際にしゃべる人と、その裏方でロジックを作る人とに分かれていて、私はずっとロジック係。ですからロジックを作るのには自信がありますが、表舞台には立たなかったわけですから、しゃべる方は結局だめ。ところが入社試験の時に出世界は『真の実力』を求めているす履歴書に、『クラブ/ESS』と書いたものだから、会社は英語が話せると思ったらしいのです。配属面接の時には正直に、英語はだめだから海外営業は勘弁してくださいとお願いしました(笑)。おまけに、父親が日産系のディーラーにいたものだから国内営業もまずい。そこで、マリーン部に配属してもらったわけです。しかし、こうして振り返ってみると、私が英語を使って会社に貢献できるようになるとは私自身が夢にも思いませんでした。―大学時代は勉学とクラブで忙しかったようですが、プライベートでエンジョイした思い出はありますか?当時から車好きで、仲のいいゼミ仲間とよく走りましたね。お金が続く限り、遠くへ遠くへと。そのための資金とガソリン代は、アルバイトで稼いでいました。4年生の時だったと思いますが、全国のゼミが集まって発表するインゼミが横浜で開催されるのに、ゼネストのために新幹線が動かない。そこでマイクロバスを借りて、佐藤ゼミの仲間と夜中に名阪・東名をとばしたのもいい思い出です。―本当に車好きだったんですね。先日、中学校の同級生がメールをくれましてね。何でも昔の文集を見ていたら私の文章が出てきたらしいのです。タイトルは『ブルーバードSSS』。いかにブルーバードSSSが素晴らしい車かをとうとうと書いていたらしいのです。大学時代は、日産チェリーに乗っていました。日産の役員面接の時も、「なんで日産にきたの?」と聞かれて、「日産、好きですから」と答えました。半端じゃなく、車も会社も、日産が大好きでした。I5

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