大学広報誌OPU Vol.01「新」
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旅行ですか…、僕の場合は旅行とは合宿のことです。クラブをやっていると夏休みも春休みも全然時間がなくて。夏は信州、春は小豆島で、リーグ戦などに備えて合宿していました。合宿では1日300本ぐらい打って、ハードでしたね。―いま振り返ってみて、大学時代はいかがでしたか?大学時代に一番本を読んだし、スポーツも一生懸命やったし、エンジニアになるための勉強もしました。そういうことすべてが後々の自分のためになっている。充実した学生生活でした。バカなこともいろいろやったけど、どれも恥だとは思っていません。あの頃の友人たちとは、年賀状のやりとりがずっと続いています。直木賞を受賞したときも、連名でシャンパンを送ってくれました。今はお互い忙しくて会えないけれど、会えば昔みたいに話ができるという確信があるから、その楽しみは老後まで取っておきます。―入社後、エンジニアとして小説を書き始められたのは、何か思いがあってのことだと思いますが。エンジニアになりたくてなったのだから、その道で一生懸命やっていくつもりでした。しかし、現実的な夢はかなえたけれど、非現実的な夢にトライしないままでいいのかという思いがありました。入社して2年目くらいかな、中途半端にしている夢をほったらかしにしておきたくなくて、実際に試してみようと。会社へ行きながらできエンジニアという夢はかなえたけれど、他の夢もトライしないままでいいのかなという思いがあった。入社2年目、会社勤めをしながら小説を書き始めた。―戦歴はいかがでしたか?ぼちぼちです(笑)。当時は4部まであって、入学したときは3部で、その後2部まで上がって、また3部になって、そんなことを繰り返していました。―記憶に残る試合は?関西の個人選手権が3年の時にあって、予選を通過したのが大学では自分一人でした。アーチェリーの試合は、距離で90m・70m・50m・30mがありますが、結局、決勝は30mで2位。翌日の新聞で1位と1点差だったことを知り、悔しかったですね。その年が一番調子のいい年でした。そのあと、キャプテンになってからは自分もチームも調子が良くなくて、3部に落ちました。でも一番印象に残っているのは、4年の時の団体戦です。当時、アーチェリーの団体戦は大学生しかなく、チームで戦うのはこれで最後かと思うと寂しかったです。―学生生活の中心は、クラブだったようですね。確かにクラブ活動は忙しかったです。大学に行くとまず部室に行く、そこに荷物を置いて授業に行く、そんな毎日でした。しかし、工学部はそれなりに勉強しないと単位が取れないから、やるべきことはやっていました。遊ぶために大学に行っているという気はまったくなかったですから。―アルバイトや旅行なども、経験されたのでは?アーチェリーは道具にお金がかかる上、たまには後輩にお茶の一杯もおごります。親からは小遣いはもらっていなかったので、家庭教師のアルバイトをしていました。小学生と中学生を相手に週に2・3回、一度に2〜4人見ていました。算数と数学しか教えないというと、これが売りになって、引きが強かったです。―ゼミは何を専攻されたのですか?高電圧を使い、放電の研究をしている藤村教授のゼミに進みました。担当は助手の五十鈴川先生でした。―卒業研究の内容を、教えていただけますか?『細線爆発』です。簡単に言うと、細い線に電流を流すと切れる、その解析です。細線に電流をかけると固体が液体になって膨張してふくれあがり、最後は気体になって消滅しますが、この間に電流がどれだけ流れるのか、金属がどう変化するのか、それをコンピュータでシミュレーションして実際と比較するという研究でした。結構、楽しかったですよ。計測器やコンピュータを使った実験などで身につけた知識や技術は、会社に入ってから非常に役に立ちました。―クラブはアーチェリー部だったそうですが、入部の動機は何だったのですか?中学は剣道部、高校は陸上部に所属していて、もともとスポーツは好きでした。大阪府立大学のアーチェリー部は日本でも指折りの伝統のあるクラブで、あれだけ立派なアーチェリー場は当時はそうありませんでした。90m打てるので、有名な選手も練習に来ていたくらいです。おまけに、大学に入る前にモントリオールオリンピックがあり、日本人選手が銀メダルを取ったことも印象に残っていて。こういう競技なら日本人も世界に通用する、そんな思いもあってアーチェリー部に入部しました。37正門の右には学舎、左にはグラウンドがあった。門を入るとまっすぐにアーチェリー部の部室に行って荷物を置き、そこから教室に向かう毎日だった。

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