大学広報誌OPU Vol.01「新」
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―大阪府立大学に入学される前のことを少しお聞きします。大阪生まれで、確か時計屋さんの息子さんですよね?実家は商店街にある店で、時計と眼鏡と貴金属を扱っていて、親父がひたすら黙々と仕事をしていました。―子どもの頃は、あまり読書家ではなかったそうですが。とにかく中学までは、ほとんど本を読まない子どもでした。高校になって、姉が読んでいた江戸川乱歩賞を取った推理小説を借りたら、自分と同じ高校生がでてくるストーリーで、それまでは一冊読むのが大変だったのに初めてスルスルッと最後まで読めたんです。―それからですか?ミステリーにハマったのは。高校、大学といろんな推理小説を読みました。高校時代には何となく僕も書けるんじゃないかという気になって、ミステリーを1本書きました。もう1本書きかけたのですが、大学受験があって中断して、続きは大学時代に書きあげました。大学卒業までに書いたのは、この2本だけです。―作家で電気工学科出身というのは、珍しい気がしますが。電気工学科に進んだ理由は、いわゆる機械いじりだとか、電気仕掛けが好きだったとしか言いようがないですね。将来はメーカーのエンジニアになろうと思っていたので、電子、電気、機械ならどの学科でもよかったのです。―作家になろうとは思っていなかったのですか?小さい頃から、夢はいっぱいありました。画家、映画監督、小説家、もちろんエンジニアもそう。どれが一番ということはなかったです。だから、何となく世間的にも通りがいいし、「自分は数学と理科が得意だから、工学部に行ってエンジニアになります」と言ったら親も先生も反対しないだろうと考えて、電気工学科に進学したのです。もし「画家になります」なんて言ったら「お前、なに考えてるんだ」と怒られるじゃないですか(笑)。エンジニア以外は、自分でも現実味のない夢だと思っていました。―入学した頃の大阪府立大学は、どんな雰囲気の大学でしたか?大阪の大学とは思えないくらいノンビリした田舎の大学で(笑)。工学部、農学部、経済学部があって、途中から総合科学部ができましたが、女性が非常に少ない男臭い大学でした。僕にとってはいろんな意味で、縛られない、プレッシャーもない、ちょうどいいポジションにある大学でした。―印象に残っている授業だとか、先生はいらっしゃいますか?今でも覚えているのが、2年の時の『交流理論』、3年の時の『過渡現象論』です。どちらも木戸教授の授業で、ガイダンスの時に「私の講義はものすごく難しい。試験もものすごく難しい」と断言されたのです。で、受けてみると本当に難しくて、意地になって勉強しました。試験は50人中、僕を含めて7人しか受かりませんでした。実は…、もう言ってもいいかな、時効だろうから…。この7人のうち3人は、僕の答案をカンニングしたヤツらです(笑)。―優秀だったんですね。エッセイには、あまり自分は理系人間ではなかったのでは、という記述もありましたが…。あれは、謙遜です(笑)。僕はやはり理系だし、工学部に進んだのは正解だったと思っています。―しかし、そんな難しい授業にあえてチャレンジしなくてもよかったのでは?どれだけ難しいのか試してやろうという思いがありました。それに、取りやすい科目を5つ取るよりも、みんなが取れない科目を1つ取った方が偉いような気がして。しかし、これらの科目は電気工学科の学生なら取らないと恥という科目で、クラスメイトたちも1年目は落ちたけれど、翌年はみんなクリアしていました。大阪府立大学には、まじめな学生が多かったです。画家、映画監督、小説家、エンジニア…、夢はいっぱいあった。どれが一番ということはなかったので、誰からも文句を言われないエンジニアの道を選んだ。「F大学の合格発表の日、掲示板に自分の受験番号を発見した時の喜びは、僕のこれまでの人生でも、ベストテンぐらいには入る幸福な瞬間のひとつである。」(集英社文庫『あの頃ぼくらはアホでした』より抜粋)入学した当時の大阪府大は、まさに『田舎の大学』。工学部、農学部、経済学部があって、男だらけの大学という印象だった。36

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