大学広報誌OPU Vol.01「新」
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「あの西鶴も農村にやってきて、いっしょに句を詠んでいます。農村とのこうした結びつきの中で、俳諧師たちは創作活動をしていたと考えられます」発掘される書物の中には、農民たちの句も多く残されている。封建制度の崩壊とともに、懐徳堂や農民たちの学びのサークルは一気に崩されていく。その大きな原因の一つに、明治政府による学校制度の確立があった。「近世の学問は、連、講、社中などいろいろな名で呼ばれますが、様々な年齢、職業の者たちがサークルを形成して、見せ合い、示し合いながら楽しむというものでした。学ぶ期人間社会学部・人間社会学研究科山中 浩之教授Hiroyuki Yamanaka Profile1998年大阪女子大学(現、大阪府立大学)教授に就任。日本近世社会文化史専攻。『中井竹山・中井履軒』『大阪と周辺諸都市の研究』『大阪府の教育史』など(いずれも共著)ら発掘される江戸時代の書物を見れば、その多彩さとレベルの高さに驚く。四書五経、医書、百人一首をはじめ、日常生活で使う暦、薬の使い方のハウツー本、旅のツーリスト案内、あるいは冠婚葬祭のマナー本など実に多岐にわたっていて興味深い。山中教授の研究室にも、江戸のこうした出版物が多く集められているが、流行小説の類は意外にも少ない。「当時の人々は、長く家に置いて使う本は買いましたが、小説はたいてい貸本ですませていたんです」知的で合理的な庶民の生活が浮かび上がってくる。農民は学問や文化とは無縁で、貧しく暗い生活をしていたと思われがちだが、しかし実は儒教を中心とした教養文化がしっかり息づいていた。とりわけ大阪近郊の農村は流通に伴っての市場形成が早くから発達した先進農村。農民たちの文字能力や計算能力は非常に高く、学問文化を受け入れる土壌が培われていた。農民たちには、京都や大阪の私塾へ入門する者も多かった。村々を超えたサークルも形成され、本の貸し借りをはじめ、定期的に読書会を開いたり、都市の学者を招いて講義を受けたりすることもしばしば行われた。中でも当時流行したのが、「俳諧の通信添削講座」である。「俳諧のお師匠さんから定期的に問題が送られてきます。前句づけ俳諧などの問題が出され、農村の人々が応募すると、次回はそれに点がついて返ってくるのです。うまく句ができたかどうかが評価されるので、仲間内でも随分楽しみにしていたようです」この添削料は俳諧師にとっては大きな収入となり、それが都市の俳諧を支えるという側面もあった。農村で盛んだった俳諧の通信教育町人や農民には、自分たちの地域や文化を、自分たちで支えるという意識があった人間社会学部・人間社会学学研究科26間も、自分が好きなだけ学べば良かったのです。しかし、学校制度ができて、学問は与えられるものとなり、年数も定められ、一人ひとりで学ぶものになっていったのです」学校制度の確立を決して否定するものではないが、当時の町人や農民の学びに対する姿勢からは、私たちも見直すべきことが多々あるのではないだろうか。「彼らは、学ぶことによって自分たち自身で、自分たちの地域を向上させようという強い思いがありました。私たちに希薄になっている意識ではないでしょうか」いま、大阪府立大学では南大阪地域の大学が結集して立ち上げた南大阪地域大学コンソーシアムなどとともに、「堺・南大阪地域学」を提唱し、地域文化を掘り起こし、それを地域活性化につなげようとする試みが始まっている。「大阪町人たちが作った懐徳堂では、貧富の差なく、人々は自らを高めるために学びました。ここに生涯学習のルーツを見ることができます」

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