大学広報誌OPU Vol.01「新」
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私たちが学校で習う歴史の多くは為政者の歴史である。江戸時代は幕府に代表される武家社会ではあるが、全人口に占める武士の割合は1割にも満たない。大部分を占めた農民や町人の文化なしには、江戸260年は維持できず、また近代日本を創り出すパワーも生まれてこなかったはずである。江戸時代の農民や町人の文化を調べると、浄瑠璃、歌舞伎、俳諧といった文芸的なものだけでなく、純粋な学問も熱心に学び、非常に高いレベルにあったことが分かる。とりわけ大阪の町人、近郊の農民たちの学芸に取り組む姿からは、現代の日本に通じる「生涯学習」や「通信教育」の原型が浮かび上がってくる。大阪の塾といえば適塾が有名だが、それ以前に、儒学はもとより当時の最先端でもある蘭学まで取り込んで学んでいたのが懐徳堂である。懐徳堂は、享保9年(1724年)、大阪の有力町人たちによって出資設立され、その利息を経常運営費にあてていた。授業料は銀1匁。貧しい学生は筆一対、紙一折でもよかった。さらに先進的なことは、裕福な聴講者でも規定以上に払うことを禁じた点だ。これを認めると、貧者が学びにくくなると考えたからである。この懐徳堂からは、中井竹山、山片蟠桃(やまがたばんとう)など、多くの学者が生まれた。「町人たちは、営利のためでも地位獲得のためでもなく、世界や人間を広く深く認識することによって自らを高めるために学びました。学習期間も当然長期にわたります。私はここに生涯学習のルーツがあると思うのです」と山中教授。さらには大阪の町人出身の学者たちは、考察したことを世間に対して自由に表明した。「代表的なのが山片蟠桃です。合理的思考を重んじ、地動説、宇宙の概念も認識、蘭学にまで行き着きました。余談ですが、実は蟠桃は、升屋の番頭さんだったんです」近世の知的文化は懐徳堂のような私塾で学ぶ市井の人々によって担われ、当時の大阪は日本で最も知的な先進地であった。「近世文化を決定的に変えたのは、出版文化です。これにより人々が書物を通して知識を獲得するというスタイルが形成されました」街だけではなく、農村にも多くの書物が行きわたった。いま、大阪近郊の農村の土蔵かHumanities and Social Sciences懐徳堂は授業料を安く抑え、積立資金の利息で運営された出版文化の普及が人々の知的好奇心を盛り上げた近世の知的文化の担い手は、町人、農民たちであった。これが近代日本を築く基盤となった。人間社会学部人間社会学研究科25

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