大阪府立大学 ロールモデル集III
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●社会人時代(1972~)●学生時代(~1972)まもなく定年を迎えます。もう充分面白い半生を過ごしました。近頃、無理をするとすぐ体に変調をきたします。あと少しの間、やり残した仕事を片付けて、そのあとは、庭いじりや小旅行、ここ何十年かしていない料理などもして、孫の成長を楽しみにしながら、余生を静かに過ごすつもりです。 就職してすぐ子どもが生まれました。子どもが小さい頃は、毎日、保育所の送迎と食べさせることで忙殺されておりました。子どもはよく病気をし、休暇が不足しました。それでもなんとか仕事を辞めずにきたのは、ルーチンワークがない職であったからと感謝しています。若いころは、起きている間のほとんどがライフでした。30半ばから、ワークに傾斜、40ぐらいから、熱があっても起きている間はワークに逆転しました。オランダ癌研究所で過ごした時期は、たぶん、家庭破壊の罪で世間に後ろ指をさされていた(誰かに言われました)でしょうが、人生で最も充実した楽しい時期でした。 50ぐらいで更年期のためか体調がおかしくなり、無理がきかなくなりました。定年を目前にしたこの頃では、二度と従前のような生活スタイルには戻れないとあきらめ、ワークを減らし休息部分を増やしています。家事10%その他(食事、休息)20%仕事70%欧米で研究する機会があれば、リスクもありますが、ぜひチャレンジすることをお勧めします。女性研究者といわれることもなく、対等に働くことができます。もう一つ、理系の研究は努力と辛抱、持久力が必要です。身を削ってもやる理由は、成果を手にしたときの達成感でしょうか。~1972大阪大学薬学部卒業1972~大阪府立放射線中央研究所研究員1990~大阪府立大学助手2001~大阪府立大学講師2005~大阪府立大学教授1973結婚1974第1子出産1978第2子出産 もともとは、研究職を望んで選択したわけではありませんでした。所属の部署に、マウスを使った白血病研究のグループがあり、その周辺で独自に行った研究の成果が、30代半ばで国際誌に載りました。一つできればもう一つというふうにして、40過ぎで学位(論文博士)を取得しました。今の常識から考えると遅いスタートです。学位取得の少し前に研究所は廃止され、大阪府立大学先端科学研究所に改組されました。このとき大学の助手になったのですが、これも偶然です。 先端研では、研究だけに没頭することができました。細胞の生理的なターンオーバーの仕組みであるアポトーシスの分子機構が全くわかっていなかった時期に、アポトーシスの感受性にマウス系統差があることを独自の方法で示し、国際交流基金をいただいて、オランダ癌研究所で研究をすることができました。発がん感受性の遺伝解析を進めている研究室でした。滞在中の成果は、3本の論文として遺伝学の国際誌に掲載されました。このときの経験が、現在の研究課題の一つである「発がん感受性の遺伝解析」の基礎になっています。また、最近のもう一つの研究課題は、マウスを飼育中に偶然見つけた「水頭症と大脳発生異常を示すミュータントの原因遺伝子の同定」です。この研究成果は、今年のアメリカ病理学会誌に論文発表しました。この遺伝子の細胞内機能の解明は、現在も続けています。 私の生家は、瀬戸内海の向島にあります。島の中央に山があり、日立造船所のドックがある尾道水道側と因島側に分かれ、私の生家は因島が見える地区にあり、みかんや花を栽培する農家でした。1学年に20人ぐらいしか生徒がいない、海のそばの小さな小学校で学びました。 島には、広島大学の臨海実験所があり、情熱に燃える若い先生の引率で、海の生物を見学させてもらった記憶があります。こんな豊かな自然の中で子ども時代を過ごしたことで、生物学を志向するようになったように思います。しかし、高校生活は灰色で、大学進学はそこから抜け出すためでした。文系か理系か迷った末、理系に進んだのですが、当時は、理系では物理・化学を履修するのがきまりでした。また、女の子は手に職をという親や教師の勧めで、薬学部に進学、ますます生物学から遠ざかりました。大卒で公務員試験を受けて、大阪府立放射線中央研究所(大放研)に研究職で勤務することになったのは、本当に偶然です。Message後輩へのメッセージPersonal HistoryWork Life Balance●学生時代●現在の仕事・それを選択した理由将来の目標・夢Dream21

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