府大支援センター_ロールモデル集-2
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家事家事家事家事事25%25%25%25趣味趣味趣味趣味趣味15%15%15%15%%【子育て後】子育て後【子育て後】子育て後仕事仕事仕事仕事仕事60%60%60%60%家事・育児家事・育児家事・育児家事・育児家事・事45%45%45%45%趣味趣味趣味趣味趣10%10%10%10%0【子育て中】子育て中】【子育て中】【子育て中仕事仕事仕事仕事仕事45%45%45%45%4家事家事家家家15%15%555趣味趣味趣味味趣味%10%10%%1【定年後】【定年後】定【定年後】【定年後】仕事仕事仕事仕事仕75%75%75%75% 科学者の道を歩もうとすると、若い頃は「私には才能があるか」と悩みます。しかし、結婚・出産後には、そんなことにくよくよしているより、時間を有効に使って仕事に精を出そうと思うようになります。逞しくなるのです。この時期は、2つの意味で貴重な訓練の機会を与えてくれます。1つは、時間の使い方が抜群にうまくなり、てきぱきと仕事をこなす訓練。よく「急ぐ仕事は忙しい人に頼め」といいますが、これは本当です。2つ目は、仕事以外の多様な生活スタイルが身につく訓練。科学者は目前のテーマにのめり込むことも必要ですが、逆に、広い視点と創造力が必要です。時には多様な経験が科学研究の思わぬ発展にもつながります。どういう女性の特性とかかわっているのかは、明らかではありませんが、いのちを守る、暴力を忌み嫌うという傾向は歴史を振り返ると女性の特性のようにも見えます。「沈黙の春」の著者レイチェル・カーソン、アスベストの被害を100年以上前に警告したルーシー・ディーン、産業医学の生みの親アリス・ハミルトン、また原爆製造協力をきっぱり断ったリーゼ・マイトナーなど、女性比率が低いのに、こうした事例が目につきます。そうでなくても、3月11日以後、科学者は、いかに社会と関わっていくかを問われました。科学をより豊かな未来のために役立てることができれば、女性が科学の世界に参画した意味があります。私もまた、その流れの中で私のできることをし続けたい。 大学院にいくことは、1つの職業選択でもありました。しかし、昨今ポスドク問題が大きく取り上げられていますが、女性にとっては、当時から博士号を取っても女性だというだけで、応募ができない状態でした。特に薬学学会は、「女性が増えると残る研究者が育たない」ということを危惧して薬学白書に「女性は研究者には向かない」といった記述があり、これに対して薬学部の女性たちが抗議をしていた時代でした。薬学白書問題は女性研究者問題の典型例だったともいえます。私自身もD2で長女が生まれ、子育てと仕事を問われることになりました。「大学に保育所を」という運動は、女性大学院生から始まりましたが、発達心理学、建築学、教育学といった多様な分野の女性研究者がその専門性を発揮して、保育所福利の運動に参加しました。このネットワークが大学院生協議会や職員組合婦人部などに広がりました。この間、私の家は保育所となり、多い時は15人ぐらい赤ちゃんがいたものです。保護者はその特性を生かして保育所運営に協力しました。「派遣村」が東京のど真ん中にできて、世論を動かしましたが、目前で困っている人が集まり、自主運営で解決しようと動き出すことは、とても大きな力になります。こうして、京都大学に初めて保育所ができたのです。こういう厳しい中で研究を続けようとすると、「なぜ研究をするのか」を考えざるを得なくなります。必然的に自分を振り返り、社会とのつながりを考えることになりました。また、沢山の仲間と協働して社会環境を変えようとする姿勢が強くなります。そしてそのためには、しっかりと科学的に自分を見つめる訓練がどこでも必要なのではないでしょうか。 大阪のネクタイ屋の娘で、小学校1年生の時、母の実家、岡山県の山奥に疎開しました。終戦の年、原爆の話は強烈なはずなのに、よほどぼーっとしていたのかなと思います。終戦後、疎開から戻ってきました。この頃のことで、都会の子と「空はなぜ青いか」を議論しました。「空が青い色をしているのではない」というと、友達は、「じゃあなぜ青く見えるのか」と詰め寄ってきました。「だって…空は空気でできていてその空気は、私の周りではすきとおっているんだもの」といったものの、説得できなかった事を妙に覚えています。敗戦のなかで、湯川ノーベル賞のニュースの影響を受けたのか、わが高校でも理学部物理学科には4人が入った年でもあります。大阪府立大手前高校の時代は、良い先生に巡り合いました。「社会は常に進化している。次の社会はあなたたちがつくるのだ」という言葉が後押ししてくれて、大学進学に踏み切りました。大学に女が行くというのは、抵抗が大きい時代でした。同級生には大阪大学に合格しても良妻賢母型の神戸女学院に行った人、親に隠れて受験勉強した人、女性の仲間は色々な人生を選びました。大学でも女子学生の数は少なく、お互いにネットワークでつながっていました。大学院は、湯川研究室を選びました。博士コース進学と同時に、同じ物理大学院生だった、小学校からの同級生と結婚しました。女性のキャリア形成の3つの問題は3M(Marriage,Maternity,Movement結婚、子育て、転勤)といわれますが、その始まりでした。Personal HistoryWork Life Balance●●学生時代●社会人時代将来の目標・夢DreamMessage後輩へのメッセージ支援される側から支援する側に、仲間を作って自分の夢を実現するために、社会の仕組みを変えていく側になってください。合言葉はBe Acvtive, Beautiful and Creative!です。今は、子どもたちに科学の心を伝える、お母さんたちと科学の面白さを共有する、ポスドク・女性研究者、定年後のまだ意欲のある科学者の活用をめざすための仕組みを作ることによって、科学の世界がより豊かになるために、できるだけのことをしようと思っています。●●社会人時代(1965~)●学生時代(~1965)1992~愛知大学理事・評議員2001~愛知大学情報処理センター所長2005~日本物理学会副会長1965~京都大学助手・講師2004~愛知大学情報メディアセンター長2006~日本物理学会会長2008~愛知大学定年退職後非常勤講師1987~愛知大学教授~1956京都大学卒業~1965京都大学博士課程修了1965第2子出産1962結婚1964第1子出産2002~日本物理学会理事男女共同参画推進委員会委員長2003~男女共同参画学協会連絡会委員長1989~愛知大学情報処理センター副所長2007~日本物理学会キャリア支援センター長2009~NPO法人知的人材ネットワークあいんしゅたいん理事長25

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