府大支援センター_ロールモデル集-2
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家事家事家事家事家事15%15%15%15%趣味趣味趣味味趣趣趣5%%%5%5%%そのそのそのその他その他他他他他5%5%%%%仕事仕事仕仕事仕事仕75%75%75%75%55【現在】【現在】【現在】現【現在家事・育家事・育家事・育家事育家児児児児児児40%40%40%40%その他その他その他その他そののそそそそ他他他他他5%5%5%5%5仕事仕事仕事仕事55%55%55%55%%【子育て【子育て【子育て【子育て子育育子中】中】中中中】 子育て期は9時~5時の生活でした。子どもが大きくなるにつれ、少しずつ遅くなったものの、高校生になる頃までは、本当に時間に追いかけられる生活でした。昼間はほとんど実験、本読みは電車の中、データ整理と論文や報告書書きは夜、家でという生活が長らく続きました。京都パストゥール研究所(現、ルイ・パストゥール医学研究センター)に就職してからも、その生活はあまり変わりませんでした。ただ、対象がマウスからヒトに移ったこともあり、より長期的にデータを蓄積することが必要となりました。生産性という点では、決して高くはなかったですが、共同研究者にも恵まれて、まあまあ業績を上げることができました。ともかく、実験の出来る場、ヒトの免疫機能が測定できる場として、他の場所にない魅力がありました。また、エイズ教育が問題になると、ウイルス発見者であるモンタニエ博士との関係から、エイズ教育の活動も、公認でさせてもらえたのは大きかったです。性教育に係わった背景はここでも役にたちました。癌患者との関わり、HIV感染者との関わりで、少しはヒトの免疫機能への理解が深まったでしょうか。さん(NPO法人知的人材ネットワークあいんしゅたいん理事長)、田中さん(大阪教育大名誉教授)等がいました。結果的に夏休み明け(出産6ヵ月後)から京大の共同保育所にお願いしました。保育所第一日目の太陽のまぶしかったこと。一方、産休中に国際的に研究の進展があり、一瞬自分がずいぶん取り残された感じがしました。従って、二人目のときは2ヵ月半休んで、すぐ復帰しました。ブランクは短いほど楽だと、この時思いました。京大共同保育所、地域保育所、その後は学童保育所とお世話になりました。また、義姉や義父母にはずいぶんと助けてもらい、その分十数年後、義父母の介護には娘たちが大きな戦力ともなりました。 学問的には、指導教官が博士課程の時に亡くなったこともあり、生物物理教室の岡田節人先生には、ずいぶんとお世話になりました。その後、博士号取得の目処がついたところで、どうしようか迷っていた時に、同じ動物学教室の免疫学の村松先生から声がかかりました。インターフェロンの抗癌作用の研究をしないかとのこと、発生学よりは就職先が広がるだろうと、研究室を移ることになりました。今で言うポスドク待遇で、院生の助けも得て、それなりに研究は進みました。そしてその後、インターフェロンの研究で知られる、京都府立医大の岸田先生が作られた京都パストゥール研究所の創立と同時に就職しました。 還暦をすぎて、研究の継続性について考えていた頃、東日本大震災と原発事故が起こりました。何かせずにはおれず、友人の坂東さんと低線量放射線検討会を立ち上げ、異分野交流を図りました。また、あいんしゅたいんを通じて、情報発信を図りました。それから1年、この間の新しい仲間との出会いは、予想もしませんでした。自身の専門性、研究経験を通じて得てきたことが、被災者に役立つならばと、情報発信したことから、思いがけぬ出会いが繋がっていって、気がついたら、福島県に行って色々な方とお話していました。研究者として、私ならではの役割があるとは、有難いことです。エイズに係わった時を知っている友人は「また走り出した、ようやるわ!」と温かく見守ってくれています。 子ども時代育った自宅は堺市の履中天皇陵のすぐ近くで、陵は庭みたいなもので、種々の昆虫をはじめとして生き物とふれあう場でした。仁徳天皇陵近くの大阪府立大学の農場の動物も、祖父とよく見に行ったものです。祖父の影響で、家で飼える動物は色々と飼い、まさに「虫めずる姫」でした。小学校時代、堺市の夏の理科展では常に学校代表でした。この頃養った観察力は、後の研究生活で大いに役に立ったと思います。高校時代、大学選択にあたって、趣味で生物をするかプロとしてするかを悩み、プロとして生物学をやりたいと、大阪市立大学の生物学科に入学しました。生物学科といえば、ああ天皇陛下の学問だねと言われる時代でした(昭和天皇は分類学で業績を上げられていました)。高校の生物の教科書には、分子生物学についてほとんど書いていませんでしたが、ライフ誌などで読んで新しい生物学にわくわくしていました。ですから、生物学科に入ってからの授業は本当に楽しいものでした。その後、学生運動の激化で、事実上、大阪市大では1年間授業がありませんでしたが、理学部の封鎖は最後で、研究室への出入りは自由でしたので、専門の先生方との距離は逆に縮まりました。その中で、朝山新一先生の人間の性の講義が一番興味深く、発生学研究室を選びました。ただ、朝山先生は私が4回生のとき退官されたので、ここでは直接の指導を得ることはありませんでした。朝山先生に人間の性の研究をしたいと言ったら、それはもっと後でも出来る、多方面の本を読んで、まずはドクター(博士号)をとれと言われました。 大阪市大の大学院を受験したものの不合格、翌年京都大学の大学院に合格、京都大学動物学専攻の発生生物学研究室に入学しました。ここでは、テラトーマ(奇形種)という、精細胞の癌化したものを、色々な組織に分化させる研究をしていました。現在のES 細胞やiPS細胞の研究につながる研究でした。ちょうど多分化能を持つ細胞からin vitroで心筋や神経に細胞を分化させることができかけた時でした。 修士2年で結婚、博士課程進学直後に長女を出産しました。つわりがひどく、指導教官からは、ゆっくりやったらいいよと言われて、休学を考えました。婦研連(現女性研究者の会・京都)でそう言うと、口をそろえて「あほか」と言われました。坂東Personal HistoryWork Life Balance将来の目標・夢Dream●学生時代●社会人時代一生涯現役、手を動かし患者の免疫機能を自身で測定する研究者としての感覚を大事にしたいと、常に思っています。私が幸せだったのは、男女関係なく、研究者として対峙出来る人達と出会ったこと、一言も二言も厳しい言葉を投げかける師や先輩、仲間に出会ったこと。特に異分野交流が、境界分野での研究にはとても役だったのは言うまでもありません。そして舞い込んだ仕事の多くは引き受けたこと。単に流行を追いかけるのでなく、自分の立ち位置をはっきりさせての異分野の研究者との交流は、研究の幅を広げる事に繋がるでしょう。そして一言、出産子育てに関しては、卵子の老化という観点からも、早目の出産が望ましいことはいうまでもありません。若いからできる無理もしてみるのはよい事だと思います。Message後輩へのメッセージ●社会人時代(1981~)●学生時代(~1981)1981~京都大学研修員1982~華頂短期大学非常勤講師1984~同志社大学非常勤講師2006京都教育大学非常勤講師1996~京都大学医療技術短期大学部非常勤講師(現京都大学医学部保健学科)~1972大阪市立大学卒業~1975京都大学修士課程修了~1981同大学博士課程修了学1974結婚1975第1子出産1978第2子出産2004~大阪外国語大学(現大阪大学大学院言語社会研究科)非常勤講師2002~京都大学医学研究科非常勤講師1986~財団法人京都パストゥール研究所主任研究員1990~財団法人京都パストゥール研究所生体防衛研究室(現ルイ・パストゥール医学研究センター インターフェロン生体防衛研究室)室長23

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